2019-11-01から1ヶ月間の記事一覧
【2011年5月19日】 榊原式部大輔政岑。 播磨姫路15万石の藩主だった。 もとは分家の当主だったが、運良く本家・播磨姫路15万石を相続した。 「藩主だった」と書いたのは、この男は藩主の地位を剥奪されたからである。 榊原政岑には 女狂い という…
【2011年5月24日】 直江兼続と吉川広家。 二人とも、関ヶ原では西軍に付いた。 そしてそれは二人の主家を減封に追い込んだ。 上杉家は120万石を30万石に、毛利家は120万石を36万9千石に減封された。 兼続と広家は対照的な運命をたどった。…
【2011年6月22日】 慶長19年、いえやっサンは駿府老中・本多正純を通して大坂城の秀頼母子に最後通告を突きつけた。 一、大坂以外への国替 一、淀殿が証人として江戸に出頭する 一、秀頼の江戸出府 この三つのうち、どれかを選ばなければ大坂城を攻…
【2011年6月27日】 正保2年12月17日。 出雲松江藩松平家家老・乙部可正の屋敷で仇討ちが行われた。 仇討ちをしたのは飯尾彦之丞、討たれたのは生駒帯刀である。 生駒帯刀は讃岐高松藩家老だった。 高松藩主・生駒高俊は男色のうえ藩政を顧みなか…
【2011年6月30日】 「今、あなたから届いた手紙を拝見いたしました。幸せなことです」 「私ども上杉家については様々な噂があるようですが、京と伏見の間でさえ噂が飛び交います。会津のような遠国について噂が流れても不思議じゃありません」 「主君…
【2011年7月1日】 文政4年春4月。 江戸での参勤を終え、津軽へ帰国の途につこうとしている陸奥弘前藩主・津軽寧親のもとに早道の者がやって来た。 早道の者は 「殿、南部の手の者、我が藩と久保田藩(秋田藩)との国境付近の城ヶ森に伏せております…
【2011年8月2日】 文政6年、岡山藩にとって長年望んでいた新田開発が完工した。この新田は児島湾を干拓したものだ。 この新田は岡山藩儒学者・小原梅坡の提案で 興除新田 と名付けられた。 「興除」は中国の管子の「興利除害」から取ったものだ。 「…
【2011年8月18日】 石田三成の失敗と柴田勝家の失敗。 共通しているのは「スケールの違い」だ。 柴田勝家は「織田軍団株式会社代表取締役副社長」の枠から外に出て考えることが出来なかった。 対して、秀吉は「日本国株式会社羽柴藤吉郎」という大き…
【2011年8月24日】 「ハァ~…」 近江長浜城主・山内一豊は今日もまた深いため息をついた。 「去年から、ため息が止まりませんねえ」 妻・千代は暗い表情で一豊を見た。 「去年から」 千代の言う「去年」とは天正12年を指す。 この年、羽柴藤吉郎(…
【2011年9月6日】 延宝3年。 筑前福岡藩主・黒田光之は江戸にいた嫡男・綱之を福岡に呼び戻し、廃嫡した。 廃嫡の理由について光之は「幕閣からの評判が悪いから」と言っている。ここでポイントなのが「幕閣からの評判」であって、綱之が暗愚だとか人…
【2011年9月6日】 山内一豊が近江長浜2万石の大名になったとき、一人の男を現地採用した。 その男、名をば田中孫作定重という。 世間一般に孫作と呼ばれるこの男は、のちに山内家が土佐浦戸20万石(土佐高知24万石)を与えられるきっかけを作った…
【2011年9月7日】 「七郎麿君を、ぜひとも一橋家に」 首席老中・阿部正弘は水戸藩主・徳川斉昭にこう言って頭を下げた。 家慶将軍には家定という後継ぎがいたが、家定には知的障害があり大奥との間に14代将軍をもうけることは不可能だった。 そこで…
【2011年9月12日】 松平伊賀守忠固。 幕末に勝手掛老中(次席老中)を務めた人で、阿部正弘と対立し井伊直弼を担ぎ出したことで知られる。 もとの名を、酒井玉助という。 播磨姫路15万石酒井家の長男として生まれたが、信濃上田5万3千石の藤井松…
【2011年9月22日】 松平隠岐守定直。 伊予松山15万石の藩主である。 もとは支藩・今治藩の嫡子であったが、本藩に養子に入って15万石を相続した。 定直は宝井其角に師事するほどの俳句好きで、「三嘯」「橘山」「日新堂」の俳号を持っていた。 さ…
【2011年9月30日】 安藤帯刀直次。 紀州藩初代付家老だ。 もとは駿府老中であった。 駿府老中は文字通り駿府城での老中職で、駿府のいえやっサンを補佐した。もちろん、江戸にも秀忠将軍を補佐する江戸老中がいて、こちらは土井利勝たちが務めた。 気…
【2011年10月12日】 流離貴族。 流浪する貴族のことで、室町時代後半にはこれが多く発生した。 津川義近という者がいた。 この者はかつて 斯波義銀 という名前だった。 斯波・細川・畠山。 この三家を室町幕府は「三管領家」と呼んだ。 管領職に就く…
【2011年10月12日】 母里太兵衛。 黒田官兵衛・長政の二代に仕えた忠臣だ。 太兵衛の最初の大仕事は、摂津有岡城の牢獄に幽閉されていた主君・官兵衛を救出したことだ。 有岡城の図面を手に入れた太兵衛は早速官兵衛救出に動き出すが、有岡城の警備…
【2011年10月13日】 田中兵部大輔吉政。 筑後一国・久留米33万石の大大名だ。 近江の百姓の子として生まれ、秀吉が長浜城主だった頃に秀吉の家臣・宮部継潤に仕えた。秀吉から見れば陪臣(またもの)である。 宮部は吉政に7石を与えた。 7石。 …
【2011年10月13日】 池田継政離婚事件。 これは、元文2年10月5日に起きた離婚騒動で、この騒動が原因で以後47年間にわたり岡山藩池田家と妻の実家である伊達家が絶交・対立関係になったことから「事件」と呼ばれる。 池田継政は離縁の理由につ…
【2011年10月17日】 「100万石か、大坂城」 この要求をしたために破滅した大名は3人いる。 まず、越後少将松平忠輝がこの要求をして越後高田75万石を棒に振った。 大人しく高田75万石で収まっていれば良かったのだが、「100万石か、大坂…
【2011年10月18日】 元和5年6月。 安芸広島城主・福島正則が改易された。 安芸・備後49万8千石を取り潰す処分なのだが、この取り潰しが弘前藩に飛び火した。 幕府は 「福島左衛門大夫には陸奥弘前に新知4万5千石を与え、陸奥弘前の津軽信枚に…
【2011年10月24日】 長岡護美。 護美は「もりよし」と読む。 肥後熊本藩主・細川斉護の六男で、初め長岡良之助と名乗った。 良之助は嘉永3年5月、下野喜連川藩主・喜連川煕氏の養子となり、 喜連川紀氏 と名を改めた。 喜連川藩は確かに「藩」なの…
【2011年10月26日】 寛永5年1月。 因幡鳥取藩主・池田光政と播磨姫路藩嫡子・本多忠刻の娘・勝姫が結婚した。 この結婚、光政の望まない結婚だった。そのため結婚当初、この夫婦は最悪の夫婦仲だった。 大名のような階級社会での結婚では、妻は実…
【2011年10月26日】 天明4年11月28日。 正四位上左中将・井伊直幸、大老職に就任。 これは、老中職・田沼意次の発案した人事だ。 この年3月、田沼は嫡男・意知を暗殺により失った。ここから意次の下り坂が始まるのだが、それでもまだこの時点…
【2011年10月27日】 酒井文吾。 会津藩人参方に勤務する真面目な男である。 人参方というのは、朝鮮人参を栽培して売る部署だ。朝鮮人参の栽培は三代藩主・松平正容の代から始まり、のちに会津藩の専売商品となった。 この酒井文吾が、藩主であり京…
【2011年10月28日】 三好 胖。 胖は「ゆたか」と読む。 肥前唐津藩主・小笠原長泰の長男だが、唐津藩を相続することは無かった。 唐津藩小笠原家は特殊な家系で、実子相続が無かった。 同族、柳沢、戸田松平とよそから養子をもらって相続させるのが…
【2011年11月21日】 元禄16年2月4日。 旧赤穂藩士・堀部安兵衛は伊予松山藩江戸屋敷で切腹した。 享年34。 今もなお多くの日本人から愛される安兵衛の遺体は丁重に扱われ、伊予松山藩主・松平定直は安兵衛の名前を記入した墓標と銀30枚を泉…
【2011年11月24日】 弘化3年1月。 井伊直弼は兄・彦根藩主井伊直亮に呼び出されて江戸で生活することになった。 理由は、次期彦根藩主になるためだ。 直弼は彦根藩主になる予定が無かったため、正室がいなかった。 そこで家慶将軍は養女・精姫を直…
【2011年11月28日】 天正14年。 秀吉は母・なかと妹・朝日姫をいえやっサンに人質に出した。 理由は、いえやっサンを上坂させて諸大名の前で臣下の礼を取らせるためである。 しかし、秀吉はいえやっサンに上坂命令ではなくて上洛命令を出した。京…
【2011年12月1日】 文久2年5月29日午前2時頃、信濃松本藩士・伊藤軍兵衛は奇声をあげながら単身高輪東禅寺を襲撃した。高輪東禅寺はイギリス公使館として利用されている寺院だ。 伊藤軍兵衛の松本藩は東禅寺警護を担当していた。東禅寺を警護し…