2019-11-23から1日間の記事一覧
【2009年4月15日】 秀吉が一番輝いていた時期は長浜城時代だったのかな?と思う。 総大将という者は、最大最良の演技者でなければならない。 羽柴藤吉郎は見事それをクリアした。 まず、藤吉郎は「陽気さ」を演じた。 「ネアカ」を演じたのだ。 誰だ…
【2009年4月16日】 津軽家のルーツ。 奥州藤原氏の子孫に、関白近衛家の血がブレンドされたものだといわれる。 だから津軽家では 「我等は近衛家と縁続き」 と言い張った。 新井白石もこれを信じて『藩翰譜』に 「世に伝ふる所は近衛殿の庶流と云ふ。…
【2009年4月22日】 島原の乱の当時、天草は唐津藩領だった。 唐津藩は肥前国だが、肥後国天草地区に4万石を持っていた。 島原の乱は島原藩の南半分の地域の人たちが起こした反乱だが、総大将の益田時貞は天草地区の出身だ。だから彼のことを「天草四…
【2009年5月12日】 限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風 これは蒲生氏郷の辞世の句だ。 後世、幸田露伴等が絶賛した句なのだが、これが会田雄次先生の手にかかると 「誰かにいのちを矯められた、無念の句」 となる。 蒲生氏郷には毒…
【2009年6月1日】 銭屋五兵衛。 世間一般に「銭五」と呼ばれるこの男は、39歳のときに質流れで手に入れた船で海運業に手を染めた。 「人生五十年」と言われた時代である。遅咲きのおやじの星だ。 そこから一代で加賀藩の御用商人にまでのし上がった…
【2009年6月1日】 池田継政。 備前岡山32万石の国持大名だ。 分家の備前天城3万石の領主で、初め池田保教と名乗った。 岡山藩を相続した継政は23歳のとき結婚した。お相手は陸奥仙台藩主・伊達吉村の娘の和姫だ。和姫このとき17歳。 良好な夫婦…
【2009年6月3日】 細川忠興は関ヶ原の戦いが終わったあと、「これで徳川の天下が確定したな」と思った。 それから忠興は自家保存のための手を打ち始める。 忠興が考えた自家保存の手とは、当時徳川家に人質に出していた三男・忠利に細川家を継がせるこ…
【2009年6月11日】 鍋島直正。 肥前佐賀35万石の国持大名で、世間一般に「鍋島閑叟」の名で知られるお殿様だ。 面長で、ちょっと眼がとろ~んとしてて、眉毛がぶっといこのお殿様は日本で初めて アームストロング砲 という兵器を製造したことで知ら…
【2009年6月23日】 佐賀藩は長崎の深堀に6,000石の領地を持っていた。領主は深堀鍋島家で、佐賀藩重役の家柄だ。 この深堀で「長崎喧嘩騒動」と呼ばれる事件が発生した。 元禄13年12月19日の昼頃のことだった。 長崎・本博多町(いまの万…
【2009年7月3日】 奥 清兵衛。 世間一般に「奥 東江」の名で知られる学者である。 清兵衛はもともと近江国(いまの滋賀県)蒲生郡小口村というところで医者をやっていた。 若い頃に医学と儒学を学んでいるので学者としても通用する人だった。 この清兵…
【2009年7月8日】 おかき。 スーパーだとかコンビニだとかで200円程度で買える煎餅の仲間です。 比較的幅広い年齢層の方々が買います。 おやつですね、これ。 このおやつを死ぬまで好んで食べ続けたのが豊臣秀吉だった。 「ド派手・きんぴか」 秀吉…
【2009年7月13日】 秀吉と寧々。 世間一般に「おしどり夫婦」と呼ばれる。 秀吉が長浜城時代に、寧々以外の女性と関係を持ち、男の子が出来たことはまあまあ知られている。よく知られているとまでは言わないが、まあまあ知られている。 この女性は今…
【2009年7月17日】 二人の変わり者。 一人は備前岡山藩主・池田治政。32万石の国持大名だ。 もう一人は浮田幸吉。傘屋の傘張り職人だ。 浮田幸吉は7歳のときに親を亡くし、岡山の傘屋に奉公に出ることになった。 真面目な上に手先が器用だった幸吉…
【2009年7月21日】 吉宗将軍の頃、松山藩はウンカの発生による大飢饉に見舞われた。 大量の餓死者を出した。義民・作兵衛が死んだのもこの飢饉のときだ。 この当時、松山藩は家老・奥平藤左衛門一派と同じく家老・奥平久兵衛一派が権力争いをしていて…
【2009年7月23日】 石川康長。 信濃松本8万石の大名だ。 彼はちょっと面白い経歴を持つ。 康長の父親は石川数正という人で、もともとは酒井忠次とともに徳川家の軍事担当者だった。 この数正が長久手の戦いのあと、突然徳川家を脱走し豊臣家の家臣に…
【2009年7月24日】 松江藩江戸藩邸。 ここで、いい年をした大の大人が二人して盥の中を覗き込んでいた。 一人はこの邸の主である出雲松江藩主・松平直政。 もう一人は伊勢桑名藩主・松平定重。 直政は松江18万石の大大名、定重も桑名11万石の大大…
【2009年8月4日】 小早川秀秋、東軍に寝返り。 これを決断させたのがいえやっサンからの威嚇射撃と家老・稲葉正成の説得だった。 秀秋は徳川・石田どちらにつくかギリギリまで迷い、関ヶ原に参戦した。 と、上記のように言われていることが一般的に広…
【2009年9月2日】 本多中務大輔忠刻。 播磨姫路藩主・本多忠政の長男で、父親からも家臣からも将来を有望視された若者だった。 期待していたのは幕府も一緒で、忠刻の母・熊姫はいえやっサンの長男・信康の娘であることに加え、豊臣秀頼と死別した千姫…
【2009年9月4日】 『直江状』 つい最近、『直江状』の全文が発見されたってニュースになっていた。 『直江状』はその存在について「あった」「なかった」の論争が続いていたけど、これで「あった」のほうがぐっと有利になるのかなと思う。 関ヶ原のあ…
【2009年9月7日】 「冷酷なマキャベリスト」 細川忠興はそんな眼で見られることが多い。 自家保存のために次男・興秋を切腹させ、関ヶ原の前には親友・前田利長を裏切っていえやっサンにすり寄った。このため細川・前田両家は100年にわたって不仲だ…
【2009年9月10日】 伊予松山藩は忠臣蔵事件のあと、10人の浪人の身柄を預かった。 大石主税 堀部安兵衛 菅谷半之丞 千馬三郎兵衛 中村勘助 木村岡右衛門 不破数右衛門 岡野金右衛門 貝賀弥左衛門 大高源五 このうち、吉良邸討ち入りを12月14日…
【2009年9月11日】 小早川秀秋。 もともと羽柴秀俊と名乗っていたこの青年は、秀吉の妻・寧々の甥だ。 秀秋は、ちょっと性欲の強い少年だった。 女性の着替えを覗き見するような「おバカ少年」だった。 7歳で丹波亀山10万石を与えられた。 もうこ…
【2009年9月15日】 京極忠高。 出雲松江25万石の国持大名だ。 忠高の正室が秀忠将軍の娘・初姫だったことから、出雲・隠岐の2ヶ国を与えられた。 忠高と初姫は、上手くいかなかった。 忠高のツラいところは、初姫が秀忠将軍の娘であるために離縁出…
【2009年9月29日】 今の松本城の原型を作ったのが松平直政。 直政は越前中納言・結城秀康の三男だったが、母親の身分が低かったために家臣の朝日重政に預けられた。認知しなかったのだ。 直政6歳のとき、父・秀康が死んだ。 10歳のときに祖父であ…
【2009年10月1日】 酒井雅楽頭忠恭。 家重将軍の首席老中だ。 が、姫路藩主になったのは首席老中を罷免されたあとのことだ。 家重将軍は、気に入らない老中職はいとも簡単にクビにした。 将軍に就任してすぐ、松平乗邑を罷免した。 乗邑の罷免に関し…
【2009年10月2日】 熊本藩の藩校・時習館では水泳を教えていた。 細川家中興の祖・藤孝(幽斎)が世渡りの遊泳上手だったことを思ったとき、熊本藩で水泳の遊泳上手を育てるというのは面白いことだと思った。 水泳を教える教官を遊泳師役という。 遊…
【2009年10月13日】 慶長17年、大御所家康は朝廷に対して 「孫娘の和子(まさこ)を、入内させてくれんかのう」 とに要求した。 要求というより圧力である。 幕府は朝廷と公家の生活費を握っていた。だから「イヤだ」とは言えないのだ。 朝廷はし…
【2009年10月22日】 正徳5年7月28日。 尾張藩主・徳川吉通が急死した。 夕食後、突然吐血してそのまま死んだ。まだ25歳の若さだった。 徳川吉通は八代将軍の最有力候補だった。 家宣将軍は死に際し、 「我が子鍋松はまだ4歳だ。もし、鍋松が…
【2009年10月22日】 弘前藩五代藩主・津軽信寿は78歳まで生きた。 歴代藩主の中で一番長生きした。 晩年、その後継者のことで御家騒動が起こった。 信寿の嫡男・信興が父に先立って病死した。信寿は信興の子・信著を嫡孫承祖させて隠居した。 弘前…
【2009年10月23日】 佐竹義宣と島津義弘。 共通点が多い。 まず、佐竹・島津ともに隠居が大きな影響力を持っていたことだ。 佐竹家では隠居の義重が大きな影響力を持っていたし、島津家ではやはり隠居の義久が大きな影響力を持っていた。特に島津家…