城ネタ2008
【2008年5月28日】 越中国高岡城は前田利長が築城したが、すぐ廃城になった。 今日は前田利長では無くて、本多政重のことを書く。 本多政重は本多正信の次男で、家を継ぐ立場では無いので倉橋家に養子に出され、初め倉橋長五郎と名乗った。 長五郎は…
【2008年5月30日】 鶴山と書いて「かくさん」と読む。 津山城のことだ。 江戸時代の津山藩は前半は森家、後半は松平家が支配した。 森家は美作一国18万石を、松平家は美作国の内10万石を与えられた。 森家の四代目藩主・長成のときの将軍が綱吉将…
【2008年5月30日】 北条氏康が関東の覇者になる上で扇谷(おうぎがやつ)・山内(やまのうち)両上杉家を倒すことは避けて通れない道だった。 北条家と扇谷・山内両上杉家の戦いは長年に渡り一進一退を繰り返していた。 「私の代で決着をつけたい」 …
【2008年6月2日】 秀吉が少年の頃、養父のいじめに耐えかねて家を飛び出し流浪したことはよく知られる。 このとき、実は秀吉は一人で流浪したわけでは無かった。 五さという女性が秀吉の面倒を見ていた。 この五さが秀吉とどのくらいの仲だったのか、…
【2008年6月20日】 康正2年、古河公方・足利成氏がこの城を築いた。 城の竣工が5月5日だったことから菖蒲城と名付けられた。 古河公方というのは、下総国古河(いまの茨城県古河市)に政庁を構えていたのでこう呼ばれる。 もとは相模国鎌倉に政庁…
【2008年6月23日】 信濃国(現在の長野県)にはたくさんの藩があった。 松本藩もその内の1つで、小学生の頃、遠足で松本城を見た記憶がある。 水野忠直が藩主だった頃に「貞享騒動」という百姓一揆が発生した。 原因は藩財政の窮乏から松本藩がそれ…
【2008年6月24日】 二日酔いの 無念極まる 僕のため もっと電車よ 真面目に走れ まあ、誰にでもあるでしょ。 ついつい飲み過ぎちゃって、二日酔い。 でも「会社行かなきゃ」って会社に行く。 頭が痛かろうが、モノが二重に見えようが、ゲーゲー吐こう…
【2008年6月25日】 唐津藩小笠原家は前領地・陸奥棚倉(現在の福島県棚倉)にいた頃からの借金が膨れ上がり、まともなやり方では財政再建不可能な状態だった。 そこで、唐津藩ではとうとう禁じ手の「人頭税」を領民に課税した。 領内の10歳~60歳…
【2008年6月27日】 「御三家」 時代劇なんかでよく聴く言葉だ。 尾張(名古屋)・紀伊(和歌山)・水戸の三家を指して「御三家」という。 この「御三家」は将軍の次に偉い大名だった。 家門だとか譜代だとか外様だとかいう枠組みを超えた家柄だった。…
【2008年6月27日】 細川宗孝が熊本藩を相続したとき、藩には37万両(185億円)の借金があった。 さらにそこへ参勤交代用の船・波奈之丸の建造費用が追い討ちをかけた。 そこへまた、たたみかけるように水害と蝗の発生で熊本藩財政はさらに悪化し…
【2008年7月3日】 安政5年6月19日。 この日、神奈川沖に停泊していたアメリカ船ポーハタン号の船上で日米修好通商条約が締結された。 日本側全権は岩瀬忠震と井上清直、アメリカ側全権はタウンゼント・ハリス。 日本側全権は大老・井伊直弼の命令…
【2008年7月15日】 加藤明成。 陸奥会津若松42万石の国持大名だ。 しかし彼はバカ殿だった。 矯正の仕様が無いくらいひどかった。 会津若松の人たちから見て、たった一つだけ評価出来るとすれば、それは会津若松城の五層の天守閣を造営したくらいだ…
【2008年7月17日】 《異説・松平頼雄伝》 松平頼雄は伊予西条藩主・松平頼純の三男で、嫡子だった。 西条藩というのは、紀州徳川家の分家だ。 「だった」と過去形にしたのは、廃嫡されたからだ。 廃嫡そのものは、大して驚くようなことでも無い。父親…
【2008年10月27日】 弘前藩主・津軽信政と三男・那須資徳はよく一緒に神社仏閣に参詣したり、湯治に出掛けたりした。 父親と息子がたくさんの時間を向き合う。 今の社会でそんなことをする親子は少ない。 何故、信政は資徳と向き合う時間を作ったの…
【2008年10月30日】 近江牛。 歴史はかなり古い。 まず、豊臣秀吉の頃に高山右近が友達だった蒲生氏郷や細川忠興に近江牛をごちそうしている。 ここで一つ、ちょっとしたことを思い出す。 高山右近はキリシタン大名だ。 蒲生氏郷もキリシタン大名で…
【2008年11月7日】 秋田城ですか。 佐竹義敦、号を曙山といい、久保田藩(秋田藩)主である。 若い頃から絵を見るのも描くのも大好きな人だった。曙山は画号でもある。 義敦は久保田藩領内の銅山の採掘量を増やして藩財政を建て直そうとし、江戸から…
【2008年11月11日】 “I CAN NEVER CHANGE IT” (オレは変わらない) 茶の湯というものを武士階級に広めたのは織田信長だった。 そしてそれを根付かせたのが豊臣秀吉と千 利休だ。 秀吉と利休の美意識には決定的な違いがあった。 秀吉は「ド派手、き…
【2008年11月11日】 保科正之という人は会津松平家の藩祖で、秀忠将軍とおしづという女性の間に生まれた。 秀忠将軍にはお江の方という7歳年上のヒステリーママのカミサンがいた。そのせいか、秀忠将軍は恐妻家だった。 秀忠将軍が大御所家康に会い…
【2008年11月12日】 小倉藩主・小笠原忠固。 彼は「権力病患者」だった。 「溜間詰めになりたい」といつも考えていた。 溜間(たまりのま)というのは江戸城の部屋の名前の一つで、大名はその家格によって詰める部屋が決まっていた。 たとえば、 御…
【2008年11月13日】 河合隼之助。 化政期(文化・文政期)の姫路藩の家老だ。 「天下の三助」 という言葉がある。 これは二本松藩の丹羽久米之助、沼津藩の土方縫殿助、そして隼之助の三人を指す。 この三人は名家宰として知られた。 隼之助の頃の姫…
【2008年11月14日☆】 関宿城祭りは関宿城を背に野田市民が大名行列に扮して歩いたり、火縄銃の発射実演等をする。 下総関宿藩主・久世重之は家宣将軍の頃若年寄となり、寺社奉行を経て老中職(国務大臣)に就いた。 重之はちょっと面白い人生を辿る…
【2008年11月17日】 越前福井藩主・松平光通は38歳で死んだ。 自害したのだ。 50万石の大大名が自害するというのは異常なことだ。 松平光通と正室・国姫の間には布与・市という二人の娘がいた。 ただ、二人の間には男子が生まれなかった。 50…
【2008年11月17日】 現在は「かくざん」と読まれているが、かつてここは「つるやま」と呼ばれていた。 「る」をきちんと発音しなかったため「つやま」と聴き間違った森 忠政が「津山」の二文字を当て字して今日に至る。 似たようなケースで公家の烏…
【2008年11月18日】 彦根藩井伊家の初代は井伊直政。 二代目は直孝となっているが、実は直政と直孝の間にもう一人直勝という人がいた。 本来なら、直勝が二代目としてカウントされなきゃおかしい。 が、直勝は二代目として認められていない。 直勝は…
【2008年11月18日】 旧赤穂藩士47人(通称・赤穂浪士)が吉良義央を殺害し幕府大目付に出頭したあと、四つの大名家に身柄を預けられた。 熊本藩細川家、松山藩久松松平家、岡崎藩水野家、長府藩毛利家の四家で、このうち、細川家では 大石内蔵助 …
【2008年11月19日】 弘前藩二代藩主・津軽信枚の妻になった二人の女性、辰姫と満天姫(まてひめ)について書く。 満天姫は松平康元の娘で、初婚の相手は福島正則の養子・正之だった。 松平康元という人は、いえやっサンの異父弟だ。 福島正之は養父…
【2008年11月20日】 「勝てば官軍」 こんな言葉がある。 本当にそうか? 陸奥会津23万石松平家は戊辰戦争で薩長軍に敗れたため、戦後処理で会津から青森の斗南に減移封された。 石高は3万石だ。 松平家は窮乏していった。 明治も30年代に入ると…
【2008年11月25日】 慶安4年7月28日。 この日、紀州藩主・徳川頼宣が藩邸で幕府からの取り調べを受けた。 容疑は、謀反。 老中・松平信綱の手元には頼宣の花押の入った手紙があった。 この手紙は由比正雪に宛てたもので、謀反のことが書かれてい…
【2008年11月27日】 黒田官兵衛は長浜城に一人息子の松寿丸を置いて摂津有岡城の荒木村重に「謀反をやめるように」説得に行った。 だが、官兵衛は村重に身柄を拘束され、有岡城の土牢に幽閉された。殺害されなかったのは、村重がいずれ官兵衛を召し…
【2008年12月3日】 松平出羽守宗衍。 出雲松江18万石の大名だ。 3歳で出雲一国の国持大名になった。 5歳のとき、彼は強烈な体験をする。 松江藩領内の空に、緑色の虫が大量に発生した。 「ブーン」と何とも言えない不快な羽音を立てて、この虫は…